飛田 正樹のプロフィール

私の名前は飛田正樹です。

ひらがなで書くと俳優すだまさきと1文字違いのひだまさきといいます。

 

茨城県下妻市で縫製工場の3人兄弟の長男として生まれました。

 

祖父母も含めた7人家族で育ち、幼いころは父の弟(伯父)もいっしょに暮らしていた記憶があり、大家族の中でてんやわんやの生活を過ごしてまいりました。

いつも家族の笑顔がそこにある、こんな庭がほしかったを考え、自然に囲まれた心地よい空間をデザインしています。

 

ガーデンやエクステリア、一般的に庭造りと呼ばれる部分で建築の外回りの空間デザインに関してはなんでもできるという自負があります。

家族が集い心が安まる空間で家族の物語が始まる「より楽しい暮らし」を提案しています。

 

庭作りの社長と知り合えた大学バイト時代

私が今の仕事、ガーデン・エクステリア作りと出会ったのは、大学時代にアルバイトしていた飲食店に近所に某ハウスメーカーが有り、そこの造園部門の支店長M氏が常連客として来ていた事から始まりました。

 

ほぼ毎日こられたM氏にある時、「ウチでバイトしてみない?」と誘われました。

大学も毎日授業があるわけではなかったため、興味本位で行ってみる事にしました。

 

この時の仕事は、現場監督補佐という役目で、現場の職人さんがちゃんと仕事をしているかを見に行って報告する役目でした。

この時代は携帯電話がない時代でしたので今でいう携帯電話の役目をしたのかもしれません。

レンガブロックと現場

 

造園の仕事にそんなに興味があったわけではありませんでしたが、現場を回っているうちに庭ができてくる様子が分かり、職人さんがどうやって庭を作っているかを目のあたりにして、今まで現場で職人さんが者を作る姿を見たことがない私は、どんどん興味を膨らましていきました。

 

「現場ってこんなふうになってるんだ。庭ってこんなふうに出来上がるんだ」とびっくしました。

 

一方、飲食店の方でも店長を任せられるようになり、卒業後はその飲食店に就職し、経営までを携わるようになっていきました。今思えばこの頃の私は、バブルの成長期という時代背景もあり、何の努力もなしにやる事すべてがうまくいっていたような気がします。

学生でありながら店長を任せられ、スタッフのなかにはバイトながらも社会人も混じる中、店長店長と呼ばれて今思えばかなりいい気になっていた感があります。

 

卒業後の人生順調かと思えたその頃、世間を騒がせた“バブル崩壊”が訪れました。

お金が飛んでなくなる

 

不動産や建築関のお客様が多かったお店でしたので一瞬で吹き飛ぶ勢いでした。

この頃、常連客だったM氏は独立して造園会社を立ち上げており、この立ち上げを手伝った事もあり、飲食店から造園会社へ転職を与儀なくされ、こうしてガーデンの仕事に本格的に関わる事になりました。

 

0から作りあげるエクステリアの仕事に夢中になり、会社が急成長する

私の最初の仕事は主に新築されたお客様の外構工事の営業でした。

 

社長のM氏が設計を担当し、私が営業と現場管理までを担当し、工事は下請の協力会社に施工をお願いする、今では当たり前になりましたエクステリア工事の仕事でした。

枕木を敷く

 

エクステリアという言葉もこの頃から使われるようになったようですね。

この仕事は自分が考えたお庭のプランが、現場で実際に出来上り、完成するとお客様からは大変喜ばれる仕事でした。そんなやりとりがとても新鮮に感じ、どんどんこの仕事に深く入り込んでいきました。

 

M氏は遊びの面でも仕事の面でも1歩も2歩も自分の前をいき、彼の行動がすべて新鮮に見え、彼の真似をする事で自分の成長を促していたのかもしれません。

そして私は夢中で資格を取りまくり、設計やデザインを勉強して、M氏には一生ついて行くと心に決め、この仕事にのめり込んでいきました。

 

二人で始まった会社もみるみる成長していき、5年も過ぎる頃には社員も6、7名に増え、私自身もだいぶ仕事を覚え、公私共に順調な日々を送っていきました。

 

一生ついていくと思った人の信じられない行動に怒り心頭

順調かと思ったのもつかの間で、この業界も同じ様な業者が急に増えたせいか、仕事の競合が多くなり売上が下がり始めました。

売上減少

 

この頃、売上ダウンに拍車をかけるように、金庫番とも言うべきしっかり者の経理担当者が寿退社をした事がきっかけで、請求や支払いの管理が疎かになり、輪をかけて経費などの無駄な支払いのチェックがいき届かなくなり、資金繰りがショートしはじめました。

 

この頃、私は現場の責任者として飛び回っていましたが…

経理スタッフから「今月払うお金が足りないですが」という連絡が社長を飛ばして私にも入るようになり、一転社内にもどり、社内改革を断行し始める事にしました。

 

社内に戻った私は、経費節減は元より、リストラも行い、最後は自分も含めてた役員報酬全額カットなどあらゆる手段を講じて経営を立て直しました。

営業面でも下請業からエンドユーザー直接営業するスタイルの元請体質に切り替え、「これならもう大丈夫」というところまでこぎつけました。

 

しかしまさかの出来事がここで発覚しました。

毎月多額の現金が出費している事に気がつき調べてみると、社長のM氏が営業接待費と称して毎日飲食店で高額の浪費していたのです。

 

 

さあこれからという時に「何故?????」

一応理由を聞いたら…

「ムシャクシャして使ってしまった」と一言。

 

理解に苦しむ行動に、さすがの私も一瞬でブチ切れ、「ふざけんな!」と一言いって、会社を退社しました。

M氏に一生ついていくと決めていた私は、この会社を辞める選択をこれっぽちも考えていませんでしたが、やめてみるとそれはそれで肩の荷がいっぺんに降りたといいますか、スッキリ爽快感を感じました。

 

そしてガーデンデザイナーとして独り立ちする事を決めました。

 

大学時代の友人との出会いが独立を支えてくれた

会社を辞めてまもなく、国道が混んでいたため裏道に入り快調に走っていたら、前を走る車の運転手に見覚えが…

 

お互い気がついた様子で、車を路上に止めて下りてみると、

「オー!もしかして飛田か?久しぶり。何やってんの」

偶然にも大学時代の同級生のKさんでした。

 

Kさんとは大学時代同じ下宿に住んでいた同級生で、たまたま出身も隣り町で、なにしろ言葉のなまりがまったく同じだったため、すぐに打ち解け仲良くなった最初の友達でした。同じ下宿ということもあり公私ともに、4年間苦楽を共に過ごした友でした。

 

偶然とは続くもので数ヶ月後また同じ路上でまた再開しました。

彼は大学卒業後、商事会社に入社し建築工事店などに材料を下ろす部署を担当していました。

 

その部署で 周辺の建築関係者を集めた展示会を年2回開催していて、

「この近辺の建築関係者がたくさん集まる展示会なので顔を売るにはいい機械だよ」と紹介され展示会に出店させてもらう事にしました。

 

この事がきっかけとなり、後に会社が大きく発展するための人脈がここで繋がりました。

会社の経営など初めてだった私がここまでやってこれたのは、あの路上で偶然にも2回も出会わせた同級生のおかげです。

 

この展示会で広がった人脈の1人で、展示会に来場した工務店の社長の同級生がそこで家を建てており、そのお庭を作らせて頂く事になった時、その施主の同級生が植木の生産をしているという事で、植木はそこから買って欲しいという依頼で植木の生産者であるS氏と出会いました。

今思えばこの頃自分は、庭のデザインばかりやってきたため、肝心な植木の事は他人任せで知識は0に等しかったと思います。

S氏はこんな私を一から手をとり、植木の知識を教えてくれました。

 

それは、本や資料には書いていない生産者ならではの実践と経験の事実でした。

これを数年かけて今節丁寧に、時には厳しく教えて頂きました。

S氏のおかげで、今では他社で植木のセミナーを開くほどになりました。

 

税務調査によってかき乱され、法人化することを決意

しばらくは会社を1人で切り盛りしていましたが、徐々に営業や工事、事務スタッフなどが増えて売上も順調に伸び始めていました。

 

ちょうど10年が過ぎようとした頃…

税務署から「お聴きしたい事があるので○月○日会社に伺います」

と突然の電話に、いったいなんの事かさっぱり分からず、当日をむかえました。

 

当時は妻と自分で帳簿をつけていたので、税務署の対応がまったく不慣れでした。

電卓と確定申告書

 

当日、税務署員は3人
会社に上がるや否や、1人は「あれはどうなってますか、これはどうなってますか」と怒涛の質問と誘導尋問を繰り返し、

 

2人目は資料を家探し始め、3人目は自前で持ってきたコピー機でコピー係といったところでしょうか。映画でみた『マルサの女』のようでした。

マルサの女たち

 

これには私も家内も心身共に疲弊し、気が狂う一歩手前の状態に陥りました。わらをも掴む思いで、商工会へ行き税理士さんを税理士を紹介して頂きました。

紹介頂いた税理士さんは、開業間もない、うちで2件目のクライアントというまだ駆け出しの税理さんでしたが、すがる思いでお願いに上がると、

 

「今後の対応は私が税務署と対応するのでお任せください!」と この言葉に崩壊寸前だった心が救われました。

 

その後の対応はすべては税理士さんを通して対応して頂き、スムーズに処理が進みました。こんな事ななら最初から頼んでおけよかったと思いました。

今回は高い授業料だと思い、前向きに今後の事について税理士さんに相談しながら進める事にしました。

 

今回の事で税務の事を少しは勉強し、頼りになる税理士さんとも知り合えた事で、どんぶり勘定だった会社の経理をしっかり行うようになり、今後の会社の発展を見据えて法人化をする事を決めました。

 

まあ言い換えれば、もう2度とこんな思いはしたくないという思いの決意だったと思います。

独立して間もないという税理士さんでしたが、本当にによくやって頂き、株式会社として新しいスタートを切る事になりました。

 

共に学び、友に活動する仲間と情報を共有することで庭の真髄を極めることに

法人化をしてまもなく某ガーデンメーカーさんの営業さんの誘いもありガーデンサービス研究会という会に入会しました。

2年前にできたばかりというこの会は、お庭の事を共に学び共に発展し地域に貢献しようというような理念もよかったのですが、当時の会長だったY氏の前社で働いていた時の同僚が、たまたま当社の工事スタッフとして働いていた事が分かりとても親近感を覚え、入会することにしました。

 

入って驚いた事は、会長自ら業界の発展と称して、門外不出とも言うべき自分会社の極秘事項やいままで培った技術を会員全員に発表しはじめました。

 

これには会員全員が共感して、これをきっかけにそれぞれの会社の良い所を教え合い、本当の意味での“共に学び”を実践していきました。

 

そしてこの会の首謀者でもあるT社長と出会いが、自分の中の転換期となりました。

時あるごとにT社長は何のために、誰のためにやっているのか、物事の根本を必要位上に説いていました。

 

いままで庭を作ることに深く意味を感じていませんでしたが、物づくりには人が不可欠、人の心を動かすには、強く深い思いが必要。

 

その思いを伝えるためにビジョンが必要と言うことを教わりました。

 

私はこの時 「人が感動する庭づくりをしてみたい」「人を幸せにする仕事をしてみたい」と決心しました。

 

モデルガーデン作成と感動の庭づくりのスタート

自分の思いを形にし、庭の楽しさを伝えるために展示場とモデルガーデンをつくりはじめました。

完成まで2年を要しましたが、完成後は、庭仲間が集う素敵なガーデンでワークショップやイベントの開催を始めました。

 

そんな時、庭を作ってほしいという親子が会社を訪れました。

何度かイベントなどに来てくれていたらしく、今回は庭を急いで作りたいという依頼でしたので理由をい聴いてみると、お母さま自身が病気で余命1ケ月程度…。

 

今まで大好きな庭を自分の手で作ってきたそうですが、ここ数年庭に出ることももままならず荒れ始めており、きれいな庭に作り直して娘に残してやりたいという事でした。

荒れた庭

 

そんな事情を聞いた私は、早速デザイン作成に取りかかりました。

 

渾身の思いで、お庭のプランを描き、お母様に見て頂いたところ、お母様が涙を流しながら、

「こんな庭ができる事がわかったのでもう十分」と言いだしました。

 

こうなればなんとしても完成した庭を見せてやりたいという事になり、速攻庭づくりがスタートしました。

 

こういう時の時間の経過は早い物で一刻一刻日が過ぎる事に焦りを感じながらも丁寧に仕上げていきました。

しかし、あと1週間で完成と言う頃に、娘さんも連絡が取れなくなりました。

 

家に人がいる気配もしばらくなくもしかすると容態が悪くなってしまったのではと思いながらも、完成間近なので作業を進め…

最終日を向え「完成しました」とメールで写真を送りましたが何の返事もありませんでした。

 

次の日残った掃除をしようと朝伺ったら 葬儀屋さんが来ていて葬儀の準備を始めていました。

まさかと思いましたがすぐにこの状況には察しがつき、掃除を早めにに切り上げて帰りました。

 

葬儀に参列した後1ヶ月過ぎた頃、娘さんから「来て欲しい」と連絡があり伺いました。

そこには、亡くなったお母様の手紙があり、亡くなる1週間前に1日だけ家に帰り庭で過ごしたそうです。

庭とお婆ちゃんと娘

 

まだ仕上り前でしたが十分満足していただけたようでした。

手紙には庭の植物の事が100以上にもわたる項目で書かれていて、泣きながら一緒にに手紙を読ませて頂きました。

手紙のイメージ写真

 

自分が関わる庭をつくる事で こんなに人に感謝をされ 涙して頂く事にこの仕事に出会った事にあらためて感謝です。

そして、今後はこのような庭作りをするために会社一丸となって取り組んでいきたいと強く思ったのでした。

 

自分が感動できるほどの庭を作り上げていく。それが結果的にお客さんに喜んでもらえる庭造りになる

ある日会社に2000坪の庭を作って欲しいという方が突然現れました。

話を聞いてみると、オーダーキッチンの展示場を作る際に庭を作りたいという事でした。

 

展示場というより、社長様の庭にかける思いが大変強く、テーマは世界感と荒涼感  世界に一つしかない庭をつくりたい という事でした。

この漠然とした想いを2年ほど計画に費やしました。

 

石などの材料は産地を見て周りサンプルを持ちかえり、図面も何度も何度も書き換え、設計事務所の方々とも気が遠くなるほど打ち合わせをしました。

図面では表現出来ない想いを庭に表現するため、全勢力を注ぎ込みました。

 

そして工事も1年8ケ月を要し完成を向ることが出来ました。

着工した当初は完成の見通しがつかず、本当に終わるのかと思った時もありましたが、いざ終わってみると達成感からか、涙が込み上げてきました。

 

この感動に至るまでには、当社のスタッフ、協力会社の協力はもちろんの事、工事関係者及び設計事務所の皆さんの連携があり、そして何よりこの仕事を任せて頂いた施主様がいて完成した庭です。長い長い道のりでしたが、人を感動させるはずの私が自分で感動してしまいました。

 

 

このような感動できるお庭ができれば、お客様は自然に喜んでくれる。それをチームとして作り上げる大事さ、お客様の人生を担っているという充実感。

 

だからこそ、家族が集い、心が安まる空間で家族の物語が始まる

「もっとより楽しい暮らし」を提案するなら世界一になりたい。

 

そういう想いで庭造りに取り組んでいます。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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